「逆光とノイズ」 3話

といっても受験はそんなに甘いものではなかった。
翔陽高校は県下有数の進学校で、中の上あたりをなんとかキープしていた僕の成績では、正直言って合格ラインに達していなかった。スポーツ特待制度もあったけど、バスケの実力なんてそれ以上に足りてなくて、先生には「どうしても翔陽じゃなきゃダメなのかい」と何度も確認されたけど、そこだけは譲れなくて僕は「はい」と言い続けた。「じゃあ死ぬ気で頑張らないとな」と最後は先生が折れた。
部活の後の塾通いや、深夜までの受験勉強は大変だったけど、苦しくはなかった。あの人と一緒の高校に通いたい、一緒にバスケがしたい、その気持ちが僕を無敵モードにした。半年後、翔陽に合格したときは、僕よりも先生や両親が驚いていた。
濃緑のブレザーと、ダークグレーのズボン。
制服に袖を通して、初めて鏡の前に立ったときの気持ちは今でも覚えている。あの人と同じ制服を着ているんだなと思ったら、ぐっと距離が縮まったような気がした。鏡の中に、僕は自分ではなく、この制服を着たあの人を見ていた。
 
「第35回入学式を行います」
入学式の前も、最中も、後も、僕は新しい教室やクラスメートではなく、廊下や運動場や向かいの校舎ばかり見ていた。
この学校のどこかにあの人がいる。廊下を通りかかるかもしれない。運動場を横切るかもしれない。僕は通りすがる上級生をつぶさにチェックして過ごした。けれど翔陽は生徒数も多く、二年生の教室がどこなのかもわからないし、部活の見学ももう少し先で、なかなかその機会は訪れなかった。あの人に会えるのはいつなんだろう、僕はその日が待ち遠しくてたまらなかった。
 
が、その瞬間はいきなりやってきた。
 
入学式から三日目のことだった。
高校では給食がなく、昼食は弁当持参だったのだけど、さっそく僕は家の玄関にそれを忘れてきてしまった。中学までは給食だったので、その習慣が抜けていなかったのだ。母の呆れる顔が目に浮かんだが、とりあえずその日は五時間授業だったので、昼食をなんとかしなければならなかった。
隣の席のクラスメートが、購買にパンを買い行くというので、僕も一緒に行くことにした。
 
購買は混み合っていた。後からそれを知ることになるのだが、部活で朝練をやっている生徒は昼まで腹が持たないので、休み時間に弁当を食べてしまう。弁当二個持ちの人もいるし、こうやってパンを買いに来る人もいる。人気のパンはすぐ売り切れてしまうため、みな、昼休み開始と同時に購買へ走る。
購買デビューの僕とクラスメートは完全に出遅れていた。ようやくパンの棚に近づけたときには、もう棚の中はだいぶスカスカだった。
「かー。よもぎ蒸しパンしかねえよ!」
クラスメートが無念そうに言った。
せめてあんぱんかクリームぱんくらい残ってないだろうかと物色していたら、
「ああ。出し忘れてたわ」
購買のおばさんが、うっかり忘れていたのか、カウンターの下からもうひとつトレイを出してきて、追加で並べ始めた。
「あんたら幸運だね。惣菜パンまだあるよ」
「マジで!ラッキー!」
「残り物には福があるって本当だね」
たまごサンドイッチやカレーパンが棚に置かれた。その中にひとつだけ、大好きな焼きそばパンを見つけたので、僕は迷わず手を伸ばした。その僕の右手の上に、すっと誰かの左手が重ねられた。
「あ」
左手はすぐに引っ込められた。
「負けた」
その手の持ち主が言った。
僕は隣を見た。そして文字通り心臓が止まりそうになる。
「タッチの差だったな、くそー」
その人は本気で残念そうに言った。
「まあいいや。カレーパンにしよ」
「あ、あの」
僕は咄嗟に焼きそばパンを差し出した。
「ど、どうぞ」
「え?」
その人がはじめて僕を見た。くるんとした丸い目で。驚くほど造作の整った、人形みたいに可愛い顔で。
「いいのか?」
「はい。僕はカレーパンのほうが好きなんで」
「でも・・・」
「どうぞ」
僕は両手で焼きそばパンをもう一度差し出した。
「・・・ありがとう」
戸惑ったように、その人は僕のパンを受け取ってくれようとした。しかし、
「藤真」
と後ろから声がして、その人は振り向いた。
「一志」
「パンもう買ってあるぞ」
「え、本当か?」
「ああ、焼きそばパンもある」
「まじで?!」
「牛乳もな」
「さすが!」
棚からさっと離れて、その人は自分を呼んだ人のところに行ってしまった。背の高い人が既に購買の袋を持って立っていた。その中を嬉しそうに覗き込んで物色している。カレーパンもあるじゃん、すげえ、すげえって。まるで子供のように。
「あ」
しばらくして、思い出したように僕を振り返った。
「ごめんな、せっかく譲ってくれたのに」
「・・・いえ」
「ありがとな」
僕は首を振った。
「一志、早く食って練習しようぜ」
「古文の宿題はやらなくていいのか」
「花形がやってきてるから大丈夫」
「・・・」
ふたりが行ってしまっても、僕は行き場を失った焼きそばパンを持って、しばらくぼんやり立ち尽くしていた。