「逆光とノイズ」 1話

地下鉄の駅の階段を上がると、目の前にチェーンの居酒屋がある。入り口の扉をガラガラと開けると「いらっしゃいませー!」と一斉に声が飛んできた。
「ご予約のお名前お伺いしまーす」
「あ、伊藤といいます」
伊藤様、奥のお座敷にご案内しまーす!と元気よく案内されるまま、伊藤は黒いバンダナを頭に巻いた若い店員に着いて行く。
「こちらへどうぞー」
開けられたふすまの奥には人数分の座布団と、二、三台くっ付けられた長机、その上には箸やおしぼりが並べられている。しかしまだ部屋の中には誰の姿もなかった。
「ご注文はそちらのボタンでお申し付け下さーい」
そう言って下がっていく店員に、伊藤はぺこりと一礼した。一番入り口に近い末席に座り、携帯を開く。着信はなかったが何通かメールが着ていた。
 
『差出人:花形さん
 件名:遅刻連絡
 本文:申し訳ない。バスが遅延したので10分ほど遅れる』
『差出人:高野さん
 件名:いま駅(^^)
 本文:永野と階段上がってるぞ~。店見っけ~。おまえどこ?』
 
駅?と思っていたら、ほどなくふすまが開いた。
「おー伊藤!」
「高野さん!永野さん!」
「伊藤~、おまえ変わらねえなあ」
二つの手でごしごし荒っぽく頭や肩を撫でられる。懐かしい顔と声。二人とも、服装と髪型が少し変わっただけで、大きな声と笑顔は高校生の時のままだった。
「営業やってるんだって?どうよ景気」
「まあまあです」
「仕事慣れたか?」
「全然慣れません。怒られてばかりです」
そんな大人みたいな会話をしていることが少し面映ゆい。社会人一年目の伊藤にとって、一年早く社会に出ている二人は、あの頃と同じように大きく頼もしくみえた。
「うーっす」
「お久しぶりっす!」
「おお!」
そうこうしているうちに、案内状の「出席」に丸を付けて返信してきた連中が続々と到着してきた。公式のOB会ではないため、声をかけたのは神奈川在住の二、三年生中心だ。
「悪い、遅くなった」
ふすまが開き、頭を屈めて、ひときわ長身の男が入ってくる。走って来たのか、息を切らしている。
「花形!」
「花形先輩!」
「うす」
スーツと、グレーのコートがサマになっている。眼鏡の奥の目を細め、柔らかく笑う顔は昔と変わらない。
「おまえよく来れたな。仕事忙しいんだろ」
「ああ。けどこんな機会もなかなかないからな、幹事ありがとな、伊藤」
「いえ」
昔から、花形の声を聞くとほっとする。そもそもこのOB会の発端は、伊藤の会社の得意先が、偶然、花形の会社だったことから始まる。花形は現在IT会社の技術者をしている。不慣れな営業で、最も信頼しているこの先輩に出会えたとき、どれだけ心強かったことか。
「この時期にしてはけっこう集まったな。えっと、まだ来てないのは・・・」
花形は座敷を見渡す。
「あ、長谷川さんと、」
「われらが監督様」
間髪入れずに高野が言うと、場の空気が少し変わった。口には出さないが、おそらくみな、いまかいまかとその人を待っているのだとわかった。
「伊藤、遅れるとか連絡来てる?」
「えーっと、いえ、」
携帯の画面は、待ち受け画像のままだ。
「はら減ったな~。どうする?先始めちゃう?」
高野が言う。
「んーでも、乾杯の音頭はあいつじゃなきゃな」
永野が言ったとき「こちらでーす」という店員の声とともにふすまが開き、みな一斉にそちらを向いた。
「あ」
そこには、突然注目され、驚いたような顔をした長谷川が立っていた。
「長谷川~!」
「・・・っ」
高野が立ちあがって駆け寄り、長谷川にヘッドロックをした。
「なんだおまえその頭!ツンツンしてねーじゃん、ツンツンどこいった?」
長谷川の頭はスポーツ刈りほどの短さになっていた。
伊藤の心臓が、トクン、と小さな音を立てる。
「これであと、あいつだけか」
「おせーよ。何してんだよ、あいつ」
「あ、」
そうだった、と長谷川が思い出したように口を開いた。
「教え子が練習中に怪我したとかで、病院に付き添ってから来るそうだ」
長谷川は皆にそう告げた。
「さきにやっててくれって言ってた」
「なんだよ、それ先に言えよ」
「そっか。なら仕方ないな、伊藤」
「・・・あ、はい」
一拍遅れて伊藤は返事をした。
が、どうして長谷川がそれを言うのだろう。と伊藤は思った。
皆は納得していたが、長谷川の口からそれを聞かされたことにわずかに動揺している自分がいた。もしも花形の口から伝えられたならば、皆と同じようにああそうかと受け入れられただろうに。
「大変だな。教師ってのも」
「でも、あいつに合ってるよな」
「苦労性だからな」
「よし、じゃあ、ぼちぼちはじめるか。正式な乾杯の音頭はまた後で」
皆がメニューに顔を寄せる中、伊藤だけは、無意識にじっと長谷川の顔を見つめていた。視線に気づいた長谷川は「ん?」という顔をした。
「あ、いえ、あの、」
伊藤は口ごもる。今でも連絡とってるんですか。まだ一緒にいるんですか。聞きたかったが聞けなかった。いつのまにか喉がカラカラだった。
「どうか、したか?」
相変わらずもの静かな口調と視線だ。伊藤は昔から、この凪いだ海のような静けさが少し苦手だった。高野や永野や花形のようには会話が続かないし、自分がひどく幼稚な人間になったような気もする。
「いえ、なんでもありません。何飲まれますか」
「そうだな・・・」
おれもビールかな、と言ったきり、長谷川はそれ以上、何も聞いてはこなかった。
 
胸の奥でカラカラという音が聞こえる。
それは古い8ミリの映写機が、軋みながら回る音に似ていた。
懐かしい映像が、一気に頭の中のスクリーンに映し出されるような気がした。体育館の匂い。部室の笑い声。思い出したいことも、出したくないことも、全部。
たぶんこの人のせいだと伊藤は思った。